ちょっと奥さん、聞いてよ

日々の出来事を小説風に記録。社会の端っこで息をひそめる人間の物語。ここだけは自分が主役。

食事に行った日

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「ありがとうございましたぁ。」

 

気の抜けた声が聞こえ顔を上げると、いつのまにか店内には客が私一人になっていた。

時計の針は19時を指している。

レシートを見ると支払時間が16時と書いてあるから、3時間ほど読書に熱中していたらしい。

買った時からちっとも量が変わっていないコーヒーを口に運ぶと、カップの冷たさが唇に伝わり、その後カップより少しだけぬるいコーヒーが口の中に流れ込んできた。

温かいうちに飲んでおけばよかった、と少しだけ後悔をしながら画面を下にして置いていたスマホに手を伸ばす。

裏返すと画面が明るくなり、未読のメッセージが表示された。

 

『すいません!仕事が長引いてて19時過ぎちゃいそうです…!』

 

30分前に送られてきていたらしいその文章からは、まだ敬語を崩すほどの関係ではないが、全くの他人行儀ではないという彼女の意志があるように感じられた。

ゆっくりで良いですよ、と打ったところで続きの文章を考えていると、彼女から再びメッセージが送られてきた。

 

『今終わりました!速攻で向かいますホント遅れてすいません!』

 

とりあえず続きの文章はいらないかと思い、打ち込んである分だけを送信する。

彼女の職場は知らないけど、お店の指定をしたときには「職場から10分程だ」と言っていた。

いそいそと荷物をまとめて、まだカップに半分ほど残っているコーヒーを一気に飲み干す。

返却口にコーヒーカップを置いて誰もいないキッチンに小さく「ごちそうさまです」と投げかけてみるが、やはり返事はなかった。

重たいドアを押し開けると、冷たい風が勢いよく店内に流れ込んできた。

反射的に首を引っ込め全身に力を込める。

そういえば天気予報では夜は雪が降ると言っていた。

風に逆らいながら店を出て車へ向かうと、後ろから「ありがとうございましたぁ。」と気の抜けた声が聞こえてきた。

打ち付ける風に顔をしかめながら振り返ると、店員がテラス席を片付けていた。

お辞儀をしながら「ありがとうございます。」と言葉を返すが、店員はテーブルを運ぶことに夢中で私には一瞥もくれることはなかった。

私の声は店員に届く前に風に奪われてしまったらしい。

小さくお辞儀をして車に乗り込むと、急いでエンジンをかけた。

 

エアコンから出る冷たい風に身を震わせながら、これからのことを考える。

大して知りもしない女性とは何を話せば盛り上がるのだろうか。

運転しながら考えを巡らせるが、何も良い話題が思いつかないまま彼女と約束したレストランについてしまった。

友人に「この店はデートに使いやすいよ。」と言われ、勧められるがままに予約した店だ。

入ったことはなかったが、外観からしてデートにピッタリという印象だ。

駐車場に車を止めると、前のスペースにも同時に赤い車が止まるのが見えた。

彼女の車だ。

 

車を降りて手を振ると、私に気づいた彼女が手を振り返してくる。

赤い車のドアが開き、スーツ姿の彼女が小さい体をさらに縮こませながら出てきた。

 

「遅れちゃってすいません!急いで出てきたら会社にコート忘れてきちゃいました。」

 

こういう時の上手い返し方が分からず、私はとりあえず「あぁ、よくあるよね。」と笑いながら返事をする。

実際にはコートを忘れたことは一度もないのだが。

 

見るからに寒そうな彼女と外でいつまでも話をするわけにもいかず、店に向かって歩き出す。

店内のライトはオレンジ色で、優しさにあふれていた。

風と一緒に扉を開けると、店内から「いらっしゃいませ。」と上品な声が聞こえてきた。

 

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