ある男の誓い
客の少ない店内では、耳を澄ませば全ての会話を聞くことができた。
例えば隣の客はコロナについて話している。
「吉田沙保里もコロナになったらしいですよ」
「吉田沙保里って誰でしたっけ?」
「ほらあの人ですよ、霊長類の人!あれ、あの人は霊長類で合ってましたっけ?」
男は会話を聞きながら、言葉が足りてないことを指摘したい衝動に駆られていた。
霊長類の人であることに違いはないが、それだと意味が大きく変わってくる。
かつて霊長類最強と謳われた吉田沙保里も、まさかこんな田舎でギリギリ人間扱いされるとは夢にも思わなかっただろう。
今日は男にとって2ヶ月に一度のビッグイベント"美容院の日"である。
そして今まさに男は椅子に座り髪を切られているところである。
服に対しての知識がある訳ではないが、それでも自分の思う最大限のオシャレを身に纏っているところを見ると、少しでも店に馴染む努力をしている様だ。
しかしこの男、いくら身なりを整えようとも類稀なる人見知りのせいで、会話が滅法苦手なのだ。
とは言えそれで良いとは思っておらず、常に自分を変える機会をうかがっている。
隣の会話を聞きながら、もしかしたら今がその機会かもしれないと密かに意気込んでいる。
すると男の髪を切る美容師から質問が投げかけられた。
「お休みの日は何されてるんですか?」
男は思った、これはオーソドックスな質問だ。
それ故に答えは幾通りもあり、回答者の技量が試される。
読書や映画鑑賞と答えれば十分会話は広げられるだろう。
もしくはスポーツと答えるのも良い。
意表をついて「なんだと思います?」とキャバ嬢風に振舞っても良いかもしれない。
なんと答えるべきか。
いやそんなことを考えているよりも、早く答えなければ不快な思いをさせてしまうのではないか。
ダメだ答えを考えすぎてはいけない、すぐに答えなければ。
「あ、仕事です。」
「…そうですかー、お仕事大変なんですね。」
男は次の一言を見つけられず、少し口角を上げて「へへっ」と笑うことしかできなかった。
自分を変える機会が過ぎ去っていくのが分かった。
会話というのはなんと難しいのだろうか。
精一杯の作り笑いを浮かべながら、男は心にある事を誓っていた。
2ヶ月後、またここを訪れるときには台本を用意してこよう。