見えない壁
就業時間を超えても尚仕事を続けるマガルに、荷物を抱えた男が声をかけている。
「マガルさんまだやっていくんですか?お疲れ様です。」
マガルは自分が話しかけられるとは思っていなかったため、一瞬反応が遅れてしまう。
「あ、ありがとうございます。もう少しだけやっていきます。」
何か面白かったわけではないが、つまらない会話だからこそ少しでも雰囲気を明るくするために笑いながら答える。
男もそれに笑顔を返し、では、と言いながら荷物を持ち直す。
部屋を出ていく男を視界の隅で捉えながら、マガルはうまく会話ができなかったという後悔と、突然話しかけられた驚きと、気にしてもらえたという喜びと、いくつかの小さな感情が胸にふわふわと浮かんでいるのを感じていた。
シャボン玉のように揺れながら、控えめに胸の中心を取り合っている。
驚きが中心に来た時、マガルの中で「何で声をかけたんだろう」という疑問が生まれた。
きっと男にとって私という存在は『親しい人ランキング』でいえば下位グループ、いやそれどころか圏外になるはずだ。
あまり話したことがなく壁があるのに、わざわざ話しかけるものなのだろうか。
マガルはパソコンを見つめながらぐるぐると考えていた。
カーソルは8の字を描きながら小さな画面の中を飛び回っている。
少し離れたところで残業組が集まって談笑していた。
マガルの周りには、誰もいない。
この物理的距離がそのまま心理的距離を表していると思った。
やはり私とみんなとでは壁がある。
壁を壊したい気持ちはもちろんあるが、壊そうとしているのを知られることが、すごく恥ずかしいことのような気がして、一歩踏み出す勇気がどうしても出せない。
それに話しかけたところでどんな会話をすればいいか分からない。
一度暗い気持ちにスイッチが入ると、より不幸を求めて妄想が加速していく。
自分が行動を起こせないもっともらしい理由を強引に作り出し、周囲との壁はさらに厚みを増していく。
突然、マガルは再び男の声で現実へ引き戻された。
「お先失礼します。今日は遅いんですか?」
先程とは違う男が話しかけている。
「あ、あと少しだけやって帰ろうと思います。」
また、無意識に笑いながら答えていた。
「そうですか、頑張ってください」
そう言い残し男は部屋を出て行く。
なんでみんな私と仲良くないのに話しかけてくれるんだろう。
マガルは自分にしか見えない壁に目を凝らしながら考えていた。
少し角度を変えれば、壁は途端に透けて無くなるような気がした。
反対側に回り込めば、実は壁は存在していないような気がした。
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